1970年代から現在まで! スニーカーの歴史を完全網羅。

いつの時代だってスニーカーに夢中だ。スポーツシューズとして履いていたもの、欲しくてたまらないから必死に買った限定品、大好きなアノ人が履いていた逸品……。進化を続けるスニーカーの歴史を今井タカシさんとともに追いかけたら、“時代”を反映した移り変わりが見えてきた。

今井タカシさん

アトモスのディレクターを経て2001年にマッドフット!を設立。自身のブランド、ティマイも手掛けるスニーカー界の奇才だ。90年代にヒップホップグループ、ガスボーイズのMC としても活躍。

1970年代あたり
スポーツシューズとしてのスニーカー。

70年代というのは僕が生まれた年代でもあ るのですが、まだまだファッションとしてスニーカーを履くというカルチャーがなかった。 運動靴の延長として捉えられていた時代だと認識しています。最近の小学生はどんどんお洒落になっているし、ナイキやアディダスを当たり前に履いています。ただ、当時は今の 小学生たちが当たり前のように知っている有名なスポーツブランドの名前を、いくつも知り、 身につけている小学生は珍しいぐらい。自分のまわりには、誰もスニーカーに注目している人がいませんでした。わかりやすくいえば、スニーカーという概念そのものがなく、本当にスポーツシューズでしかなかった。だから、そもそもスニーカー好きという人自体が、ほとんど存在していなかったんです。僕がスニーカーという存在を認識しはじめて買ったのも80年代なのでまだ先の話。

とはいえ、スニーカーの歴史をさかのぼっていくと70年代の象徴として、スタンスミスという偉大な名作があります。70年代より少し前をたどると、コンバースのオールスターから始まり、ヴァルカナイズド製法(布地のアッパーと、靴底のゴムを圧着するスニーカーのもっとも基本的な作り方)のジャックパーセルやプロケッズのロイヤルプラス、スタンスミスの前身であるハイレットといったシューズがありました。70年代はこれらの流れをくみ、ようやくカップソール(足を包むように縁の上がったカップ状のソール。横からアッパーと縫い付ける)のシューズが登場してきた時代。

アディダス オリジナルス・スタンスミス
プロテニス選手スタンレー・スミスがハイレットを愛用。そこにデザイン性を加えたことが始まり。彼の名前が由来になっている。

EVA(軽量で耐久性に優れた合成樹脂)がミッドソールについたランニングシューズもそうですね。スタンスミスはテニスのコートシューズ。のちに、世界で一番売れたスニーカーという称号を与えられるほどなので、当時から定番的に売れていたシューズだと思いますね。輸入品にあたる海外のスポーツシューズブランドの商品は、ドルが高かった時代なので、すごく高価な物でした。そんなわけで、スニーカーを街履きするという考え方がまだまだ一般に定着はしていなかったのですが、70年代にすでに大人だった人たちの一部では、『ポパイ』(マガジンハウス)などの雑誌を参考に、アメリカの文化に憧れてスニーカーを楽しんでいる人たちもいたようです。日本においては、ファッションの先駆者たちがいち早くスポーツシューズをスタイルに取り入れ始めたころといったところでしょうか。

70年代のスニーカーは、基本的にはすべて運動から派生しているもの。そのほかに印象的だったのは、ランニングシューズとして開発されたコルテッツです。もともとはオニツカタイガーに発注したのちに、オニツカとナイキの前身であるブルーリボン社との関係性が解消され、ナイキができて、ナイキ コルテッツになるという歴史があります。そんなストーリー性のある靴なんですけど、コルテッツは、ナイキを代表するクラシックモデルとしていまだにその人気は健在ですよね。

ナイキ・コルテッツ
ナイキの創始 でもあるビル・バウワーマンの試行錯誤ののちに発表。ナイキブランドの処女作でもあるランニングシューズだ。

あとは、ナイキのスタンダードモデルでいうと、バスケシューズであるブレーザーもハズせません。 強のためにオールレザーやオールスウェードで当時から作られ、レザースニーカーとして不動の地位を確立しました。

ナイキ・ブレーザー
ナイキの本社があるポートランドのバスケットボールチーム、ブレイザーズのNBA加盟がモデル名の由来。

1980年代あたり。
ストリート・ヒップホップカルチャーとの遭遇。

80年代はステューシーをはじめ、スケートシーンだとドッグタウンといったブランドが日本に入ってきて、一部の人たちが身に着けだしたころ。それがストリートファッションと呼ばれ始めた時代でした。スニーカーも徐々に街中で見かけるようになりつつも、依然、実用性を求めて履く物という考え方が一般的。80年代に第1次勃興期として出てきた、スケーターたちの足元の定番であったヴァンズのエラも、彼らはギアとして意識していたんではないでしょうか。ファッションとスニーカーがリンクするのはわりと後です。

ヴァンズ・エラ
トニー・アルバらによってスケーターのために作られ、グリップ力とダイレクトなボード感覚でスケーターたちに愛されてきた。現在では、スケーターのみならず足元の定番となっている。

おもしろいのが、当時エア ジョーダン 1を履いているスケーターが多かった。なぜかというとお洒落だからということではなく、単純に安かったから。当時エア ジョーダン 1は日本で全然売れなくて、上野のロンドンスポーツという店のカゴの中で1980円でたたき売りされていたんです。それをスケーターたちが目ざとく掘り出してスケートシューズとして定番化していったんです。実際にスケートもしやすかったらしいですよ。ソールも厚くないし、オールレザーで頑丈だし、機能性もスケシューとして合っていたんでしょうね。本来バスケットシューズなんですが、マイケル・ジョーダン自身まだルーキーイヤー。日本で有名じゃなかったからエア ジョーダンやばい! ってファーストが出た当時に言っていた人はほぼいなかったと思います。

ジョーダン ブランド・ナイキ エア ジョーダン 1
バスケットの神様マイケル・ジョーダンのファーストシグネチャーモデル。白を基調としたシューズしかNBAで履くことができない当時、毎試合罰金を払って赤黒カラーを履き話題に。

実際、日本だけではなく3まではあまり盛り上がっていなかった。人気が出たのは、4以降。でも、エア ジョーダン 3は当時、海外のラッパーによく履かれていました。スリー・タイムス・ドープっていうラッパーユニットが3人とも全員同じエア ジョーダン 3をレコードジャケットの写真で履いていたのを覚えています。あれはかっこよかったですね。

ジョーダン ブランド・ナイキ エア ジョーダン 3
発売は1988年。マイケル・ジョーダンが初のリーグMVP と最優秀守備選手賞を獲得した年だ。有名なジャンプマンロゴが初めて採用された1足。スパイク・リーがCM 制作を手掛けた。

80年代は日本だとまだファッションやカルチャーの情報が全然なくて、それこそ雑誌『宝島』(宝島社)で、藤原ヒロシさんと高木完さんが連載していたラスト オージーというページがあったくらいですから。それか、このころ創刊された『スラッシャーマガジン』をアメリカから持って来たりとか。あとは、ちょうどMTV文化が80年代に全盛になってきたので、音楽のPVを見てその人たちが何を着ているかをチェックし、同じようなものを探しに行ったりしていましたね。まだまだそういうお店も少なかったですが。

ヒップホップカルチャーとスニーカーが強固にリンクし、世間に広まっていくきっかけとして、一番大きいのがランDMCの存在ですね。1986年にエアロスミスと共演した「ウォーク ディス ウェイ」のMVで一気にブレイク。そのときすでに「マイ アディダス」という曲が彼らにはあって、スニーカー礼賛という内容なんです。このタイミングでスニーカーカルチャーがアンダーグラウンドからオーバーグラウンドに踊り出ることになったわけです。

上下アディダスのトラックスーツを着て、ヒモを抜いてスーパースターを履く彼らのスタイルに憧れ、みんなが真似ていました。ヒモを抜いて履く由来は、アメリカの刑務所では囚人に、首つりや、凶器として使われないようヒモを外して履かせていて、それがストリートでは不良の証しだったようです。でも
実際はかなり履きにくいんですよ。だから、ウルトラスターというランDMCモデルがアディダスからリリースされました。これはヒモがなくても履けるようにシュータンにゴムをつけて歩きやすい仕様になっています。もはやメーカーを動かしてしまうほどの影響力があったということですよね。アスリート以外ではじめてアディダスと契約したのもランDMCだったということもあり、当時のヒップホップとスニーカーのカルチャーがリンクしはじめる、いわばエポックメイキング的な出来事といえますね。

アディダス オリジナルス・スーパースター
もとはバスケットシューズであったが、80年代はストリートシーンでも人気に。ブームの火付け役はランDMC。スーパースターを愛用した彼らをアディダスは、オフィシャルにサポートした。

80年代の中期から、デフ・ジャムというレーベルができてきて、そこにパブリック・エネミー、ビースティ・ボーイズやLL・クール・Jも所属していたりしたんです。それまでの黒人の一部の層だけの文化だったヒップホップという音楽を、白人のプロデューサー、リック・ルービンが、一気にメインストリームに持ち上げるんですよ。ブラックミュージック一辺倒だったところに、ロックの要素を融合させることで万人に受け入れられる音楽性を伴っていきました。そうしたメインストリームへの移行に付随してファッションもさらにリンクしていくんですよね。人気のアーティストがファッションアイコンとして影響力を発揮して、多くの人が彼らをお手本にするようになっていきます。ビースティ・ボーイズの 足元としては、1983年に発売されたアディダスのキャンパスを愛用している姿が有名ですよね。またたく間にブームの火付け役となります。彼らはほかにもプーマのクライドを履いてステージやPVに登場していて、ストリートファッションに大きな影響を与えたミュージシャンとなりましたね。

プーマ・クライド
モデル名は、バスケットボール選手のウォルト・フレイジャーの愛称が“クライド”だったことに由来。プーマを代表するアイコニックな商品として人気を博す。

1990年代初頭
スポーツ熱の上昇とファッションへのコミット。

90年代あたりから世界的にスニーカー熱が高まるんですが、その裏にはNBAというアメリカのバスケットボールのリーグが盛り上がっていたという背景があるんです。当時はスター選手が多く、レイカーズにマジック・ジョンソン、セルティックスにラリー・バードそしてブルズにマイケル・ジョーダンという三つ巴の戦いでした。ほかにもチャールズ・バークレーといったライバルもいて、キャラの濃い選手が多くおもしろかった。いろんな選手のシグネチャーモデルのシューズが登場し、人気を博すんですが、ジョーダンが話題をすべてかっさらっていくことになります。彼が率いるブルズが、90年に初優勝して、そこから3連覇を果たすんです。そんなNBAの盛り上がりと同時に、シューズとしてのエア ジョーダンも激しい争奪戦に突入します。
 マイケル・ジョーダンの活躍に伴って、日本でも一部のショップでプレ値をつけてスニーカーを売るということがついに始まったんですよね。そのとき、エア ジョーダン 1が、2万4000円ぐらいで売られていたのかな。ジョーダンが急激に人気になっていき、昔の叩き売りされていたころにファースト買っておけばよかったね〜。ってよく友達と話していたのを覚えています。僕は89年からスニーカーショップで働き始めるんですけど、その年に発売されたエア ジョーダン 3までは、マニアックな人たちが好んでポツポツと買っていたぐらい。そこまで一般的にはなっていなかったんですが、4からは、リリースすれば即日完売するほどの人気シリーズになりました。スパイク・リー監督の映画『ドゥ ザ ライト シング』の作中にエア ジョーダン 4が登場した影響だったり、一般の 知度がかなり高まったんですよね。それによって過去のエア ジョーダンもリセールショップでより高く売れるようになり、ムーブメントとして過熱していきます。

ジョーダン ブランド・ナイキ エア ジョーダン 4
1989年に発売され、TPU パーツやメッシュ素材など当時の最新技術を余すことなく採用することで爆発的人気を博す。さまざまな復刻版やカラーがあり、プレ値がつくこともしばしば。

そしてエア ジョーダン 5が出るころには熱狂がピークを迎え、アメリカで暴動が起きたり、ついには殺人事件にまで発展するわけですよ。スニーカー欲しさに人を殺すなんて……。そんな影響力がある靴があるのかと世間に知れ渡ることになります。最近の若い子たちは、もはやジョーダン=スニーカーで、人の名前ってことを知らないことも多い。それぐらいシューズとして伝説的な位置に上り詰めたもので、スニーカーの歴史においても重要な存在だと思います。

ジョーダン ブランド・ナイキ エア ジョーダン 5
ジョーダンの跳躍力とオフェンス力を表現しながら、戦闘機からインスパイアされてデザイン。リフレクティブ素材のシュータンやクリアソールなど先進的なパーツ構成。


90年代といってもさまざま。どこを切り取るかにもよるんですが、ストリートシーン、それも、いわゆるアイコニックなヒップホップファッションに関していえば、ウータン・クランが出てきたころから、東海岸のラッパーのような格好のトレンドがひとつあったように思います。ブランドだと、ラルフ ローレンのポロ スポーツだったりトミー ヒルフィガーなんかもそうですね。そういうアメリカンブランドをオーバーサイズで着るのが流行っていた印象です。80年代のランDMCのようなスタイルは少なくなっていました。90年代のはじまりは、どちらかというと西海岸のヒップホップがメインストリーム。彼らの格好はTシャツにジーンズと、非常にシンプルだったので、ランDMCのような格好からは離れていった。あと90年代初頭だと、エクストララージが設立された。そのころビースティ・ボーイズのマイクDが出資していたので、ヒップホップとブランドとの距離が近かったんです。だからエクストララージを着てパンツはベンデイビス、足元はキャンパスやエアウォークみたいな格好も定番で。僕も当時『Fine』でモデルをしたときに、そういうスタイリングで撮影した記憶があります。

90年代の『Fine』でもストリートシーンをミックスしたファッションを提案。エクストララージのシ
ャツにニューバランスを合わせていた。(Fine1995年4月号)

 このころのスニーカーだと、ニューバランスの M576ですかね。人気のアイテムだったと思います。東海岸のラッパー集団のネイティブ・タンの人たちに影響を受けて僕も履いていました。スチャダラパーのBOSEもよく履いていましたよ。そのころの僕らといったら、みんなお手本は完全に海外のラッパー。そういう流れから、ウータン・クランが出てきたことでドカンと盛り上がって、誰もがニューヨークに憧れるっていう時代に。ニューヨークのBボーイたちの格好を真似して、太いバギーパンツをはいて全身ダボダボ。サイズは3XLをみんな好んで着るような感じ。『Fine』をはじめ日本のファッション誌もそ
うしたスタイルを提案していました。僕はバンドマンたちとも絡んでいたからいろんな系統の人を見ることができた。昔は今より音楽ジャンルの壁が低く、ヒップホップもロックもハウスも、ひとつのイベントに多様な音楽やファッションが まっていたから。そのミクスチャー感がおもしろかった。ロック好きはコンバースなどのローテク、ヒップホップ好きはデコラティブなスポーツシューズを好んで履いていたと思います。

ニューバランス・M576
ニューバランスを代表する品番のひとつ。不動の定番モデルとして幅広い層から人気を集めている。500番台は、舗装されていない道、オフロードで使うことが想定されたシューズだった。

1990年代中盤
90年代中期のデザインとテクノロジー。

90年代も中盤になってくると、もうすぐ2000年になって 21世紀という未来へ向かいますよという希望みたいなものが時代背景として色濃くあったんですよね。世紀末のワクワク感というか。ミレニアムという言葉が流行語のように頻繁に用いられていました。いわゆる21世紀=未来っていう考え方ですよね。誰もが明るい未来を期待していて、そんな気持ちを反映したよりハイテクなものが好まれていた時代なんじゃないかなって思います。ノースウェーブのエスプレッソみたいな特殊な存在もありましたけどね。ソールが分厚くて武骨な魅力があるモデルで、シルエットが印象的なモデルでした。チャンキースニー
カーの走りとしておもしろいモノだったなと思います。これは藤原ヒロシさんが、自分の連載ページで掲載して広まったんですよね。90年代当時から彼は影響力がありましたからね。スニーカーで彼が推した物は必ず売れる、なんていわれていました。

ノースウェーブ・エスプレッソ
イタリアの靴職人の町で生まれたブランド、ノースウェーブの代表作。アフタースノーシューズだが、スニーカーブームに沸いた日本ではストリートスタイルを代表する1足に。

ただ、人々の 心を最も引いたのは、やはりハイテクシューズで、インスタ ポンプ フューリーなんかは特にそう。当時のデザイナーに話を聞いたりしても、世間を驚かせたかったって言っていましたよ。デザインも機能もどちらも未来感みたいなことは意識的に強調していたみたいです。

リーボック・インスタ ポンプ フューリー
1994年に登場。ランニングシーンからインスパイアされたシューズであり、エアポンプブラッダーをあえて露出することで、未来を想像させるルックスに仕上げている。

 今でこそさまざまなデザインが出てきてはいますが、当時はまだ独創的なアイデアが生まれやすかった環境だったように思います。だからデザイン性が高いシューズがどんどん登場して、世論とも相まって一大ブームに繋がっていったんでしょう。プーマのディスクブレイズもそのうちのひとつ。

プーマ・ディスクブレイズ
元祖ハイテクランニングスニーカーで1992年に発表。ダイヤルを回すとフィット感が強まり、シュータンのタグを引くとリリースされるディスクシステムが新しかった。

インスタ ポンプ フューリー、ディスクブレイズ、エア マックス 95の3つは90年代の象徴的かつ革新的なハイテクシューズとして誕生して、永遠のアイコンモデルになりました。80年代ってデザイン的に奇抜なものってあんまりなくて、シンプルで素朴だった。その背景にはアディダスの影響力が強かったこともあります。アディダスは工場をフランスなどに持っており、製造拠点がヨーロッパで品質がとてもよかったんです。90年代には中国に工場を移転しました。オーセンティックな魅力があったアディダス本体に動きがあったことも90年代のハイテクブームが拍車をかけたのかもしれませんね。

1995年に一大ムーヴメントを巻き起こしたエア マックス 95。

エア マックス狩りが流行語に! 
スニーカー史に残る偉大な傑作。

90年代中期に生まれはしましたが、スニーカー史全体で見ても避けて通れないのが、エア マックス 95ですよね。このころのデザインってなかなかすごい。エア マックス 95もデザイナーとの対談を見たことがあるんですが、人体の筋肉の繊維や骨格をモチーフにシューズへ落とし込んでいるものなんですよ。テックシューズブームの全盛期に、スニーカー好きの心をつかみました。人気タレントが着用した影響も大きかったと思うんですが、最高値で当時およそ20万円のプレ値。自分も当時店に立っていて8万円ぐらいの値付けだったらあっという間に売れるんですよ。マックス狩りなんて言葉も流行って、外に履いていくだけで靴を奪われちゃうっていう、社会現象となりましたよね。いわゆるイエローグラデを中心にすごい盛り上がりでした。

ナイキ・エア マックス 95
1995年に誕生した伝説のシューズ。前足部にもビジブル エアを初搭載し、未来的なデザインのクッショニングが大きな話題となった。ファーストカラー、通称“イエローグラデ”を中心に爆発的なヒットを記録。その唯一無二のスタイルとデザインがファッション業界にも多大な影響を与えた。現在も復刻モデルの人気は健在。

2000年代あたり
カルチャーの復興とブランドとのコラボ。

90年代後半から、ナイキの勢いに落ち着きがあったんです。95年あたりの流行がゆえの反動なのか……。どんなことでもそうだと思うんですが、物事って一度振り切ると絶対揺り戻しがある。過熱すればするほど、世間も冷めたんでしょうね。それに、“好きじゃないけどスニーカーを商売にする”、そんな人たちが増えたこともあります。 金回りもよかった時代だったということもあり、“株を買うくらいならスニーカーに投資する”みたいな人たちが結構いたんです。そういう層が一気に手を引いていった。エア マックス 95のあとに出た96も97も状況がそうさせたのか、落ち着いていて。スニーカーから皆が れ始めるんですよ。あれだけ売れていたジョーダンも11まではかなり調子がよかったけど、12ぐらいからあれ、どうかな? って匂いがしてきて。そこからナイキが一時期よりもクールダウン、同時にスニーカーのマーケット自体がどんどん冷えこんでいきます。1997年から1999年の3年間なんてまさにそう。当時、僕はミタスニーカーズで働いていたんですけど、毎日店の前を通るお客さんにディスカウントチケット配っていましたからね。そんなことしても、お店の価値を落とすだけだって僕は抵抗したんですけど、社長からは、とにかく売らなきゃダメなのよー! って言われていて。確かにそうだな、なんて思っちゃいましたね。そのころはもうプロパーで売れるなんてことがなくて、入荷したその日から10%オフなんですよ。それでも売れなかったらどんどん値引いていく。いま考えると90年代中期の異常なブームの反動だったんですよね。

ただ、ある時期からの復活の原動力になったのもまたナイキでした。2000年に僕がアトモスの1号店の立ち上げを手伝って、初代店長を務めていたころですかね。またナイキが徐々に盛り上がります。ナイキのエア フォース 1 がストリートなどで再び脚光を浴びてエア フォース 1ブームが来るんですよ。新色も出たりして。その甲斐もあり、スニーカーシーン全体がまた盛り上がってきていたんです。

ナイキ・エア フォース 1
1982年に発売のナイキ エアを搭載したバスケットボールシューズ。素材やコラボレーションなどさまざまなバリエーションが登場し、ストリートにおける人気シューズとしての地位を確立した。

たとえば日本のスノーボードブームと藤原ヒロシさんの紹介が相まってグラビスのライバルは入荷日から行列ができた。在庫が売り切れるまでずっと人が並んでいるっていう状況もありました。スニーカーマーケットの明るい兆しが見えはじめたという実感が湧きましたね。

グラビス・ライバル
グッドイナフとの共同製作モデルで話題に。著名人の愛用者も多かった。ブランドの特徴的なギミックであるイージーオン・イージーオフシステムを搭載し、脱ぎ履きがラク。

アトモスはスニーカーセレクトショップの走りだったと思うんです。当時そういったセレクトの業態をうたったスニーカー屋というのが基本的になくて。街の靴屋さんがちょっと並行輸入品を入れてセレクトをしているなんてくらい。コンセプチュアルなスニーカーブティックとして存在した店というのは、アトモスが日本初だったと思います。スニーカーそのものはもちろんそうですが、スニーカーを売る店の変化というのもスニーカー史の変遷に大きく携わっているんですよね。この時代のひとつ大きなトピックとしては、2000年を境に、ブランドと店とのコラボレーションができるような環境が整いはじめたことでしょうか。最初のきっかけが、ニューバランスのMT580をミタスニーカーズとヘクティクが作ったこと。それから店発信の、メーカーを巻き込んだコラボモデルがリリースされはじめるんですよね。

ニューバランス・MT580
1999年より構想がスタートし2000年リリース。当時、画期的であったショップ主導コラボレーションモデルの先駆けとなったメモリアルな一足。まさにモンスターコラボレーションであった。

ミタスニーカーズはナイキともコラボレーションをしていて、ハイブリットコンセプトというプロジェクトもありました。カテゴリーの枠を超えて過去の名品を彩った特徴的で独創的なパーツを現代的に再構築する、というコンセプトのもとでデザイン製作された第1弾モデルが、ナイキ×ミタスニーカーズのエア トレーナー ダンク ハイ 森羅万象でした。ナイキとミタスニーカーズによる、単なる復刻にとどまらない新しい取り組みとして話題になりましたね。ショップとのコラボは今ではよくあることですが、当時はなかなか画期的な出来事でした。そこからコラボブームじゃないですけど、それぞれの店の個性やカラーを示す流れが生まれたんですよ。 

ナイキ・エア トレーナー ダンク ハイ 森羅万象
ダンク、エア トレーナー 1、フリーソールの3つを融合。ナイキお馴染みの素材や柄が詰め込まれた。ナイキとミタスニーカーズが復刻にとどまらないコンセプトを打ち出した一足だ。

ファッションシーンに関しては、ア・ベイシング・エイプのNIGOとアンダーカバーの高橋盾がはじめた店、ノーウェアができて、90年代中期から始まった裏原ムーブメントが引き続き継続していました。もともとストリートカルチャーの中でいわゆる裏原系ブランドは盛り上がっていましたが、本当に大きく広がったのは2000年代だったような印象です。当時のエア フォース 1再燃のトレンドと相まって、エアフォース 1のオマージュであるベイプスタを海外の人気のラッパーが履いていたり、エイプの服を着ていたりしていたんですよ。日本のブランドの服を好んで着る海外のファッションアイコンも、頻繁に目にするようになっていきました。そういう意味でも日本発信のカルチャーが世界にも通用するんだっていうのが鮮明に見えた時代でもあったのかなと思いますね。

2010年代(現在)
新しいスニーカー時代。

90年代まではスニーカーマーケットといっても、欧米と日本ぐらいの話だったのですが、2000年代以降は中国の経済発展とともにアジア諸国も中間所得層が増えていきました。また、インターネットの普及によりストリートカルチャーの情報伝播の方法も変わっていきます。スニーカーを求める人のパイが一気に増えるんですよね。人気のあるものは、どんどん過熱していってしまう。それを現代ではハイプって言い方をし、ハイプなスニーカーなんて表現も定着していきました。エア マックス 95が20万円で売れてすごいなーなんて思ってたのが、今はエア イージーみたいに100万円するスニーカーもあるわけじゃないですか。そんなの買う人いるのかよ、なんて思いますけど、実際に買う人がいる時代なんですよね。そういう富裕層、スニーカーにいくらお金を注ぎ込んでも惜しくないっていう人たちがいるっていう事実。すごい時代です。端的に言うとそれが“今”なんですよね。そんな背景があるから、メインの購買層である最近の若い子たちの特徴として、リセールマーケットに入ってこないモデルは買わないっていう考え方があります。リセールバリューが高いから、これは買っても損はしないなっていう打算的な買い物をする子たちが増えてきちゃってるんですよね。昔ほど、熱量を持ってスニーカーに向き合うわけではない
んですよね。一方90年代のスニーカーラバーたちには熱い思いがあって、ピュアな印象。もちろん今も一部マニアはいますけど、“いくらで売れる”を気にしつつスニーカーを収集している人が多いんじゃないかな。今のシーンを見ていると。寂しいような気もしますが、これだけスニーカーの量も増えたし、リリースの量が多すぎて、スニーカーを扱う仕事をしている僕たち自身が追いきれないですからね。90年代までは、当時の代表的なシューズが頭に入っていても、最近はあらゆるコラボレーションもあって、すべてを把握できないし忘れてしまうほどなんです。

とはいえ、スニーカーはずっと進化を続けています。トレンドの中で、ランというのがひとつキーワードになっていて、おもしろい機能を持つランニングスニーカーも増えています。オンのクラウドXだったりホカ オネオネのボンダイ 6なんかは、まさに今の時代を象徴している。

オン・クラウドX
スイス生まれの高機能ランニングシューズ。世界で最も軽い全面衝撃吸収ランニングシューズで、無重力かのようなランニングを体感することができる。
ホカ オネオネ・ボンダイ 6
クッション性の高さとボリュームソールが魅力。ぽってりしたフォルムと、オールブラックのミニマルなルックスでファッションシーンからも熱い視線を集める。

さらにナイキから世界記録を樹立させた靴、ヴェイパーフライ 4%が出ましたよね。今や世界のトップランナーの8割が履いてるんじゃないかという靴になってきています。もともとランニングシューズは薄いほうがいいって時代が長く続いていたんです。ナイキのイノベーションによって、ここ1、2年で厚底を履くのがいいという概念が生まれました。そうしたソールの革新はオンやホカ オネオネなんかに通じる部分もありますし、何より俯瞰してみても人気。一般的にも認知されつつあるのがおもしろいですよね。厚底ランニングシューズの常識が変わったんですよ。そういうテクノロジーを持った靴なのでもちろん街履きしても楽だしストレスなく履けるから、ストリートファッションにも必然と落ちてきて。という流れだと思いますね。

ナイキ・ヴェイパーフライ 4%
フライニットアッパーがフィットし、足裏の高反発フォームとフルレングスカーボンプレートが驚異的なエネルギーリターンを実現。トップランナーが絶賛し最速のシューズの異名を持つ。

それと、ミッドソールに使っている素材も時代とともに変わっています。今までEVAが主な原材料だったんですけど、別の物質を混ぜ、さらに軽量化してクッション性能を上げて。技術革新は常に進んでいます。ミッドソールについての大きな変化でいうと、ここ最近はナイキがフルレングスのエアを作ったり、アディダスによる新素材を使ったウルトラブーストだったり。これらは今までの時代では作れなかったものでした。かと思えば、3Dプリンターでソールを作ったりなどその進歩は止まることがないです。

アディダス オリジナルス・ウルトラブースト
アディダスが誇るソールの技術、ブーストテクノロジーの最高峰にして、アッパーにはプライムニット。まるで靴下を履いているような軽くしっかりと包まれた感覚を実現。

そうした技術革新による最たるチャレンジがナイキのブレイキング。前回がフルマラソンで2時間25秒(非公式)でしたよね。人類が2時間をはじめて切ることができたら、そこに憧れて、記録を出した靴を履きたいって思うでしょうからね。ファッションではなく、本気のパフォーマンスシューズと真摯に向き合う姿勢にナイキの絶対的なリーディングカンパニーたるゆえんがありますよ。

これからのスニーカー時代ですが、まだまだ進化し続けるんじゃないですかね。もちろん行きすぎちゃうと戻るので、またローテクのオールスターやスーパースターが再燃することもあるでしょうし。かたや、先端のテクノロジーはそのまま進んでいくので、より軽くて履き心地がいい物、トップパフォーマー
が足元に選ぶ最高峰のアイテムが、豊かなライフスタイルの一部として街でも履かれるようになっていくのだろうなって思います。たとえば、ナイキのエア マックス 720ではエア マックス史上最も厚いソールを発表して、より快適に履けるようにしたり。スニーカー好きにとっては、ずっとおもしろい時代が続いてるなぁと。まだまだ楽しませてくれそうですね。

ナイキ スポーツウェア・エア マックス 720
360度のクッショニングを実現し、未来で生まれた靴というコンセプトがぴったりなデザインと鮮やかなカラーバランスがストリートによく映える。

まとめ

今もなお進化を続けるスニーカー。各メーカーが試行錯誤しさまざまなモデルが発表され、カルチャーを生み出してきた。そんなスニーカーの行先はいかに? 今後も目が離せない!


写真/野中弥真人 文/ニッセンシュウ 撮影協力/atmos japan、WORM TOKYO

Category記事カテゴリ

TOP